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2015/06/16

産業道路駅付近の海岸電気軌道の遺構

20150612_23535020150612_235534 以前,多摩川に沿って羽田まで歩くときにお世話になった京急大師線産業道路駅。多摩川沿いを歩く時に,過去2回程お世話になった駅です。
 その産業道路駅付近をGoogle Mapで見ていると,なにやら怪しげなカーブした道,しかも行き止まりの道が目に付きました。付近の道路は産業道路にしろ,産業道路駅付近の小路にしろ,南北の道はほぼ垂直に大師線に突き当たるように延びているのに,この道だけが怪しげにカーブしている・・・・・。
 この道の辺りを航空写真に切り替えてみると,地図では行き止まりのこの道は,なんと大師線にすんなり接続しているように見えるではありませんか。
(左の地図を参照方。写真をクリックすると,拡大図が現れます。)
 これで大いに興味を持って調べたところ・・・,やはりこの道は鉄道線路跡だったのです。
 この怪しいカーブの道は,かつて京急本線の京急鶴見駅 - 花月園前駅の中間にあった総持寺前駅と大師駅(現在の大師線川崎大師駅)を産業道路経由で結ぶ路面電車,海岸電気軌道の跡だったのです。
 海岸電気軌道の歴史は,現在の京浜急行電鉄,当時の京浜電気鉄道が,本線の総持寺駅(上述のように現在廃止)から分岐して本線より海側を進み,大師河原から多摩川を渡って現在の京急空港線大鳥居駅付近を通り,さらに北上して大森町で再び本線に合流するという生見尾線を計画した時に遡ります。この路線は,工業地帯として発展するであろう鶴見,川崎,東京南部の湾岸に沿って鉄道を建設し,沿線の工場群への通勤輸送を担おうという目的で計画されたものです。
 ところが,現在でこそ大工場が立ち並ぶ京浜工業地帯を貫通する路線ですが,計画当時はそれほど工場も多くなく,採算が疑問視されて申請が却下されてしまいます。そこで,京浜電鉄は東京側の計画を断念し,総持寺駅から大師河原まで北上した路線を西に曲げて,大師線の当時の終点である大師駅につなげようという事で開通させたのがこの海岸電気軌道でした。はじめから京浜電鉄系列の別会社として1925年に開通しています。
 ところが,やはり当時は工業地帯として未成熟で乗客が少なく,さらに一部並行する貨物専用鉄道である鶴見臨港鉄道(現在のJR鶴見線)が旅客営業をはじめ,さらに乗客を取られてしまいます。
 そのため,1930年,京浜電鉄はこの路線から手を引き,海岸電気軌道は鶴見臨港鉄道が経営する事になりました。
 しかしその後産業道路拡幅計画が持ち上がり,1937年,これを機に海岸電気軌道は廃止されました。
 一方,京浜電鉄大師線は旧海岸電軌の廃線跡の一部を利用して産業道路駅さらに小島新田から塩浜,桜本へと路線を延長します(現在では,小島新田から先は塩浜操車場,現在の川崎貨物駅建設のために廃止されています)。
 さてあの産業道路駅付近のカーブした道路ですが,あの道路こそが大師駅から東へ向かい,産業道路に合流するための海岸電軌のカーブだったのです。
 海岸電軌は産業道路上に軌道を持つ路面電車だったそうで,路線跡をたどれるといえばたどれるものの,その痕跡は総持寺駅付近とこの道路を除いてほとんどないようです。まあ考えてみれば,現在の大師線川崎大師駅-産業道路駅間は生きている海岸電軌の痕跡といえます。

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