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2015/08/20

川崎運河跡

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 先日,横浜市鶴見の総持寺から川崎市の大師までを結んでいた海岸電気軌道を紹介しましたが,それに関連して地図を見ていたとき,何やら怪しげにカーブした公園を見つけました。JR鶴見線浅野駅北方,怪しくカーブして細長い公園があります(最初の航空写真を参照)。なにやら鉄道の廃線跡のような雰囲気がありますが,それにしては幅をとりすぎています。早速昔の地図(昭和26年の横浜市三千分の一地形図)を見ると,ここは川だったところでした(二番目の地図を参照)。
 この川について調べてみると,川崎運河という人口の河川で,作ったのは何と現在の京浜急行の前身,京浜電気鉄道だという事が分かりました。ここに運河を掘り,その両側を工場用地として分譲しようとしたのです。この運河の両側に海岸電気軌道から分岐する循環軌道を敷設する計画もあったといいます。さらに軌道は京浜電気鉄道本線と南武鉄道(現在のJR南武線)が交差する八丁畷駅をも結ぶ計画でした。
 この分譲地,いくつかの工場は進出したものの,大正末期から昭和初期に掛けての経済不況によって思う様に土地は売れず,しかたなく住宅地として分譲する事になったそうです。住宅地に物資を運ぶ運河は必要ないという事で埋め立てられて現在に至ります。しかし完全には埋め立てられず,細い排水路として水面が残った時代も会った様ですが,今では完全に埋め立てられています。排水路の部分は遊歩道として整備されている区間もあるのですが,おそらくその下には暗渠となった排水路が埋まっているのかもしれません。
 さて最初の写真は,怪しげな長細くカーブする公園部分です。北から南,海川に向かって撮影しています。写真は公園の北側の広場の部分で,この写真から分かる様に,運河はかなり幅が広かった様です。
 次の写真は最初の写真の南方,運河が現在の産業道路にぶつかるあたりで,ここの運河跡は住宅に変わっています。写真左側の道路ではなく,住宅部分が運河跡のようです。写真を撮っている背後が産業道路です。
 次の写真はさらに南へ進んだところです。産業道路の南側には消防署があり,その南側からは水面が現れます。これは川崎運河開削の前からあった旭運河で,川崎運河はこの旭運河をさらに北へ延長した様な形になっていました。北から南の方向に撮影しています。
 この3番目の写真に写っている橋の上から北方に向かって撮ったのが4番目の写真です。旭運河の現在の最上流という事になりますが,昔はここから川崎運河がさらに北方に向かって伸びていたわけです。写真の右奥に,丸い配水管が見えるのですが(小さくてちょっと分かりにくいかもしれません),おそらく埋め立て後もしばらく存在していた排水路の暗渠化された姿,その出口かもしれません。
 次の写真は同じ橋(末広橋といいます)から前の写真の反対側,つまり北から南に向かって撮影した風景です。奥に写っている橋はJR鶴見線の鉄橋です。後に海岸電気軌道を吸収合併した鶴見臨港鉄道の後身ですね。
 さて川崎運河の最北端はどこまで伸びていたのでしょうか。昭和18年当時の地図が次の地図です。最北端二は舟溜りが作られ,幾分広くなっていました。この場所は現在では川崎市立京町小学校とその西側のマンションになっています。次の写真がその京町小学校の正門ですが,運河の面影,舟溜りの面影は微塵もありません。
 最後に,運河跡の緑道の写真を示します。日当緑地と書いた石碑が建っています。この緑道は運河の大半が埋め立てられ,残った廃水路の跡なので,本来の運河の川幅より大分細くなっています。

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