熊野神社に行ってきました
先日紹介した師岡熊野神社に行って来ました。
東横線大倉山駅から綱島街道を歩いて大きな熊野神社と書いた石碑の所を東へ入ると,熊野神社と「いの池」の前に出ます。以下,写真を主にルポします。
(写真をクリックすれば,拡大します。)
1.「いの池」。池の形が「い」の字に似ている事から「いの池」とよばれています。中央に弁財天を祭ってあり,水神社の小さな社があります。写真右側に写っている社です。熊野の神が誤って弓で片目を射られた時,池の鯉の目をくりぬいて代用したため,それ以来この池の鯉はすべて片目になってしまうという伝説があります。
2.そこから道を挟んで振り返ると,熊野神社の参道入り口です。ここから鳥居をくぐり階段を上った所が神社です。
3.師岡熊野神社の社殿。奈良時代,神亀元年(724)全寿仙人が創立したという古社です。写真は左から覆殿・幣殿・翼殿となっており,平成17年に完成した新しい社殿です。正面はガラスの自動ドアになっています。江戸中期,正徳2年に建てられた本殿は,左側の覆殿の中に収まっています。
4.本殿裏の「のの池」です。1000年以上前からある池で,神社の神事にはこの水を使います。640年くらい前に落雷で社殿を焼失した際,御神体・宝物類を全てこの池の中に入れて焼失を免れたという古い記録があるそうです。
5.「のの池」のアップです。池を木材が取り囲んでいる様ですが,これは石柱のようです。
6.「のの池」と並んで,いくつかの境内末社があります。写真は「のの池」の向って右側に並んでいる天満社,日枝社など。
7.「のの池」の向って左側にある神明社。その前から写真左側に続く階段が,熊野神社背後の権現山に上る階段です。
9.権現山へ至る階段の途中にある三角点。まともに三角点を見たのは初めてです。
11.権現山広場のすぐ北の先は崖になっていて,その先に住宅地が広がっています。昔は北に向ってもっとなだらかに下っていたらしいのですが,山裾を削平して住宅地をつくったようですね。だから権現山の北の先は,崖になっています。
12.権現山広場の東側の一角が,師岡貝塚となっています。保存状態の良い貝塚で,横浜市域では類例の少ない中期前半の貝塚として学術的価値が高いものだそうです。
13.権現山から境内にもどり,覆殿の脇を通りました。覆殿の中に,江戸中期築造の本殿が納まっています。
14.熊野神社を出て,東側の坂を上り権現山のすぐ下の崖中腹を通る細い道から北側を覗くと,樽町上組神明社が見えます。鳥居と小さな社殿が見えます。この神社は,昔の地図を見ると,権現山北斜面に建っていた様ですが,いまでは権現山崖下のコンクリート製の人工地盤の上に建っています。
15.同じく,カメラを少し上に向けて住宅地の方を見たところ。
16.崖下の道から住宅地へ降りて,神明社の下へ行ってみました。樽町上組神明社へ上る階段です。
17.神明社の下から見た全景です。神社の下はガレージになっています。鳥居の上に二〜三本の空色の棒でできたようなガードレールが分かるでしょうか。これが先ほど神明社を上から撮った道路です。その上数メートルのところが天神山頂上広場で,広場からこの道に降りる正規の道はありませんが,おそらく降りる人がいるのでしょう,ちょっとした道ともいえない道ができています。しかし,それを使うのはちょっと危険です。
18.前回の記事に書いた愛国寺の位置がこの交差点付近の様です。愛国寺は樽町上組神明社の北隣といっている文献がありますが,本来権現山中腹にあったもので,削平された住宅地の中となってしまっているので,痕跡など全くありません。
19.熊野神社を離れて,綱島街道へ出て,綱島街道沿いの「ちの池」跡へ行ってみました。水争いがあり怪我人の血で池が染まったとも,妊婦がこの池畔で子どもを生み,池に身を投げて池が血でそまったとも言われていますが,実際は,池に生えているマコモが秋になると赤みを帯びて水が赤く見えたという説もあります。この辺りまで熊野神社の境内だった様ですが,本来は農業用のため池で,二つに仕切られ,西の大曽根村への水門と東の樽村への水門があったとの事です。写真は樽村分の池の跡で,大曽根村分の池はその向うの住宅地になっています。「いの池」「のの池」「ちの池」を合わせて,「いのちの池」と呼ばれています。
この後,綱島街道を10分程歩いて,これも前に記事にした樽町菖蒲園の跡へ行ってみました。それはまた別の記事にします。
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