殊能将之の「鏡の中は日曜日」
以前紹介した「黒い仏」に続く,殊能将之の名探偵 石動戯作シリーズの第3作目が「鏡の中の日曜日」です。黒い仏はミステリーと言っていいのかどうか分からない怪作でしたが,この作品は見かけは館ものの推理小説となっています。
この作品は,大括りとして3つの章に分かれています。
第1章は,「ぼく」とその母親らしい(「ぼく」によって母親だと認識されている)ユキ,それと「ぼく」に厳しい「父さん」の話。この「ぼく」は,おねしょをして登場するので,初めは子供かと思うのですが,そうでない事がだんだん分かってきて,登場人物たちの言葉から知的な障害のある「いい年をした」男らしい。そこへときどき「ぼく」のものと思われる回想が入りますが,それがこの三人とどう係わっているのかは分からない。そして最後に「ぼく」による殺人が描かれます。被害者はなんと石動偽作。ある日石動がぼくとユキととおさんが暮らす家にやってきて,ユキを困らせたため,ぼくが石動を撲殺してしまうのです。
そして第2章は,1987年と2001年の両方が交互に描かれます。1987年は鎌倉に住むフランス文学研究家の邸宅「梵貝荘」で行われる親睦会,「火曜会」とそこで起こる殺人事件,そして名探偵水城優臣によるその事件の解決が描かれます。2001年の分は石動のこの事件に関する再調査が描かれます。石動はある出版社から,1987年の解決が正しかったのかどうか検証する事を依頼されたのです。そして第1章の回想シーン,それが確かに「梵貝荘事件」の話である事が分かります。つまりこの第2章により,読者は第1章のユキとぼくが梵貝荘の住人だと認識するのです。2001年には痴呆症になっている梵貝荘主人,瑞門龍司郎がぼく,龍司郎の長男の嫁,有紀子がユキと認識するわけです。
そして第3章。水城と石動の会話。石動が水城と話し合う事により,石動の疑問が解消し,当時の水城の推理が正しかったのがわかります。
この作品は,紹介するのが非常に困難な作品で,ここまでこの文章を読んでもこの作品の本質はわからないでしょう。しかしラストのどんでん返しと作者が読者に仕掛けたいくつもの勘違いについて書くつもりが無いのなら,ここで話の紹介を終えざるを得ません。
読者の勘違いはいくつもあります。第1章のぼくと第2章のぼくと思われる人についての勘違い,第1章のユキと第2章のユキと思われる人についての勘違い,第1章の舞台と第2章の梵貝荘についての勘違い,第1章で殺される石動に関する勘違い,そして石動の梵貝荘事件に対する疑問「なぜ水城は事件当時,ある女性を疑わなかったのか?」という疑問にも関係する水城優臣に対する勘違い。読者はたくさんの勘違いをした上で第3章に突入し,その真相に驚愕するわけです。
しかしどうも,私は殊能ミステリーとは肌が合わないような気がします。
どこが合わないのかと考えてみると,作品の途中で,あまり謎的興味が湧いてこないからである事に気づきます。
最後のどんでん返し的サプライズエンディングは,私も大好きなのですが,殊能ミステリーのサプライズは,作品の途中で読者(私)が「こうであろう」と考えた筋書きがひっくり返されるのです。この「こうであろう」という読者なりの考えがある・・・,読者なりに解決してしまっている・・・,ということで,読者にとって作品の途中で謎興味が湧かないのです。「こうであろう」と読者が勝手に結論付けてしまうので,そこには読者としては謎がなくなってしまうのです。実際は最後には「こうであろう」はひっくり返されるのですが,とりあえず途中では読者は「こうえあろう」と納得してしまって,謎的サスペンスが生まれないという事です。
そう考えると,サプライズエンディングの魔術師,アガサ・クリスティーのすばらしさがよくわかります。中途に謎的サスペンスがありながら,最後に驚きのエンディングがあるのがクリスティーです。
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