小田急と東急世田谷線の不思議な縁
以前,東京世田谷区に住んでいて,そこは小田急線と東急世田谷線の両方の駅に出られる場所だったのですが,そのため渋谷に出るときは世田谷線(私が住んでいた時点では,東急玉川線の三軒茶屋-下高井戸区間である下高井戸支線),新宿へ出るときは小田急に乗っていました。
したがって小田急と世田谷線はおなじみの電車だったのですが,この二つの鉄道は,不思議な縁がある事を最近知りました。
(以降,分かりやすいように,路線名は現在の名前を使います。)
小田急の創業者,利光鶴松は,当初まず地下鉄である東京高速鉄道を企画します(この地下鉄計画は東急の五島慶太が参画し,渋谷-新橋間の地下鉄(現在の地下鉄銀座線の南半分の区間)として実現する地下鉄と同名の会社ですが,別物です)。その東京高速鉄道の郊外線部分として計画されたのが現小田急の路線です。
地下鉄の郊外線という位置づけですから,起点は赤坂にも近い現在の東京千代田区平河町に置き,平河町から赤坂見附,原宿,渋谷,三軒茶屋,成城学園前(当時の砧村)を経て多摩川を渡って原町田へ,そして現在の小田急の路線とほぼ同じ経路で小田原にいたる路線でした。
ここで注目は,初めの計画当時は新宿を経由せず,渋谷から三軒茶屋,成城と,現在の世田谷通り沿いに計画されていた事です。それが新宿起点となったのは,鉄道省にいた利光の友人の助言によるという話が「利光鶴松と小田急電車(首都圏の鉄道史4-2)」というホームページに載っているので参照ください。
さてこれが大正時代の話です。
それより前,明治時代に構想されたのが玉川線でした。私は,玉川電気鉄道の後身が玉川線,二子玉川への本線と三軒茶屋-下高井戸間の世田谷線だと思っていたのですが,その成り立ちは二子玉川への玉川電気鉄道と世田谷線方面を企画した玉川砂利電気鉄道の2社の案を合体したものだったのです。しかもどうやら,この2社の合体では,世田谷線の玉川砂利電気鉄道が主となり,二子玉川方面の玉川電気鉄道を合体したようです。
これは前述のとおり,大正時代である小田急の計画より前,明治時代の話です。
その玉川砂利鉄道の計画は,下高井戸に至る路線ではありませんでした。三軒茶屋から上町(当時は世田谷)を通り,さらに西に世田谷通り沿いに進み登戸に至るという路線。社名の砂利は,二子玉川ではなく,登戸付近の多摩川の砂利を意図していました。
これとほぼ同じルートをたどるのが,大正時代の小田急の当初計画だったわけです。私のいう小田急と世田谷線の不思議な縁とはこの事です。
結局小田急は新宿を起点とし,玉川砂利電気鉄道の計画線より少し北側を通り,世田谷線は上町から大きく向きを北へ変えて世田谷通りを離れ,下高井戸で京王線と接続する事になりました。これは,京王線が運んでくる多摩川の砂利を下高井戸で受取って都心へ運ぶ意図があったようです。線路幅が同じ京王線と世田谷線は,当時下高井戸で線路がつながっていたようで(直通運転は行われていなかったようですが),下高井戸には京王線本線の他に,貨物線もありました。
ちなみに,大正時代の小田急の前,明治時代に,小田急と同じような経路をたどって東京千駄ヶ谷付近と小田原を結ぼうとした武相中央鉄道の計画があって,玉川砂利鉄道は登戸から先,これに乗り入れることを考えていたようです。大正時代の小田急は,この玉川砂利鉄道と武相中央鉄道の計画を合体させたような計画だったわけですね。
私が世田谷に住んでいた時お世話になった2線ですが,最近そんな縁がある事を知って驚きました。
(写真は,フリー写真素材サイト「足成」より。)
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